ボール
ひとしのけったボールが、壁にはね返って、けんの足もとに転がった。けんはそれを右足で上手に受けとめて、ポンポンと転がすと、反対の足をつかって壁めがけてかるくけりかした。パコン、とボールのはね返る音が、午後のせまい路地裏に響きわたった。
「えいっ!」
たたっ、と走りこんだひとしは、そのはね返って宙に浮いたボールにつっこんで、坊ちゃん刈りの頭を、思いっきりつき出した。ボールは、ひとしの頭の上でひとつとびはねると、今度は、けんの胸の方へと飛んで行った。
「ヨッ!」
待ちうけていたけんは、ボールを胸でトラップして、地面に転がした。そしてすぐに足をつかって、ドリブルする。
ふたりは、その日もふだんと同じことをして、遊んでいた。それは、ひとしの家の前で、けんとひとしがボール遊びをすることだ。
「国立競技場に、サッカーを見に行ったとき、記念に買って、もらったんだ」
いつだったか、ひとしが、けんにそう言ったのが、きっかけだった。それから、この夕暮れどきのひとときが、何か月もつづいていた。
とうふ屋や、小さな修理工場や、普通の民家などがならぶ細い道、その中に、ひとしの家はあった。玄関のところだけ開けて、コンクリートの壁が、家を囲っている。それは、ひとしたちが遊ぶのにはうってつけだった。軟球ボールで遊ぶのはもちろん、ハンドボールごっこや、壁に落書きだってできる。いま、この壁はふたりのサッカー遊びに、大いに役立っていた。
しかし、難点もあった。それは、せまい道なのに、車の往き来が多い、ということだった。とうふ屋や雑貨屋などがあるせいだが、それだけではなかった。ひとしの家の向かいには、マンションがズラリとならんでいたのだ。当然、近くに駐車場もあった。
だが、ふたりはここが好きだった。何よりも壁が魅力的だった。だから、学校が終わってからの遊び場は、いつもここだった。
「いくぞー!!」
けんとひとしは、こんどは路上でお互いに向き合って、ボールのパスなどをしようとした。一台の軽トラックが、この道を通ろうとしているのが、遠くに見えたからだ。先にボールを持ったのはけんだった。
「いいよぉー」
ひとしは、両手を大きく広げて合図した。
軽トラックは、ぐんぐんやって来た。が、距離はまだある――そう思ったけんは、すばやくボールをけった。その直後、まだ遠くにあると思っていたトラックが、急に目の前を横切った。一瞬、けんの目の前から、ボールとひとしがかき消された。
ひとしも、ボールの行方を見失いかけたが、瞬間的なひとこまを、偶然目にした。軽トラックの前タイヤが、ボールを弾いたのだ。あっ、という間の出来事だった。ボールは壁と壁のあいだにすいこまれていった。
ガチャン!
キキッ。
ひとしが、ハッ…! としたとき、一度止まった軽トラックは、急発進で、その場を行きすぎた。
ボールのゆくえを追って、ふり向いたひとしの目の前には、粉々にくだけ散った窓ガラスの破片が、地面いっぱいに広がっていた。
「あーっ!!」
そこへ、けんも駆け寄ってきた。
ひとしは、急いで軽トラックを追っかけようとしたが、トラックはもう角を曲がって、行ってしまったらしく、ふたりの視界からは消えていた。そして残されたのは、窓わくだけの、玄関のとびらと、表面が切りキズだらけになった、ひとしのサッカーボールだけだった。
ふたりは、しばらくその場に、棒立ちになった。
それが、何分だったか、何時間だったか…。 そして、けんがやっとの思いでつぶやいた。
「ぼく……帰る」
ひとしは、そのとき何も言えなかった。いつものように、軽く合図することさえも出来なかった。見おくることもせず、その場で立ちつくしてしまっていた。
「ちがうよお! トラックだよお」
「嘘おっしゃい!!」
夕方もおそくなり、パートから帰ってきたお母さんはガラス片の散らかった、玄関の有様を目の当たりにして、ひとしを叱りつけたのだった。けれど。ひとしは、お母さんにほんとうのことをわかってほしい、と必死だった。
「だって、けんちゃんも見たよ。いっしょに遊んでたんだもん」
「ひとし、トラックがボールをけったっていうの?」
「だって、本当なんだもん。けんちゃんと遊んでたときに、トラックが、来て……」
「……ンもぅ、じゃ、ちょっと待って」
そう言うと、お母さんは台所へ向かった。ひとしも、汚れたサッカーボールを両手で抱えたまま、あとについて行った。
台所の窓の横に、電話が置いてある。お母さんは、電話の上の方の壁にはってある、電話番号メモを指でたどって、けんの家へ電話をかけた。
ひとしは、台所まで来たが、お母さんの近くには寄らず、少し離れたところから、その姿を、ジッ…と見ていた。両足をふんばって、お腹に、グッ、と力を入れながら……。
「もしもし……」
お母さんは、何かしゃべっている。ひとしはお母さんを見てはいる。見てはいるが、しゃべる声は聞こえなかった。ひとしには、なぜだか何も耳には入らなかった。そのかわり、ドクドクドク……と、胸の鼓動が、頭の内側から響いてきた。まるで、心臓がとびだしてきて音楽を奏でているみたいだった。
「…………」
しばらくして、お母さんの口の動きが止まった。ひとしは見入っていた。お母さんは、後ろをふりむくように、チラッ、とひとしを見た。けれどすぐに、視線をそらした。ひとしは、ハッ、と思ったが、からだは動かなかった。お母さんは、壁に貼ってあるメモや、天井を見たりしながら、受話器のむこうで返事が来るのを待った。
「…………」
ひとしが、自分の両手に、汗のジメジメを感じたとき、お母さんは「うん、うん」と、うなずく仕草をしていた。そして、時々ひきつった笑いをうかべるのだった。
「わかったわ、ありがと。それじゃあ……」
お母さんの白い手が受話器を置いた。それでひとしは、われに返ったように、
「おかあさん……」
と言った。
「……けんちゃんは知らないってよ」
「えーっ!? そんな……」
「もういいから、あやまりなさい。許してあげるから……」
ひとしは、精一杯の力をふりしぼって言った。
「だって、本当にぼくじゃないんだもん!!」
「しょうがない子ね! 今夜は晩ご飯はあげませんよ」
「ちがうんだい! ……どうしよう」
「ひとし、しばらくそのボール、あずかります。よこしなさい」
「やだ!! これダメ!」
「……かしなさい!!」
「わーっ!!」
お母さんは、むりやりにボールを取りあげた。ひとしは、涙で顔をグシャグシャにして、バタバタと廊下を走った。大きな震動が、家中にひびいた。そして階段をのぼり、慌ただしく扉を開けると、部屋の中に飛びこんで、畳の上にうつ伏せになった。
「あ――――っ!!」
ひとしは、両手、両足をバタつかせ、
「くそーっ!!」
と言って、ドンドン! とゆかを叩いたりした。
(ぼくが悪くないのにーっ!!)
空気をつかむように、両のこぶしを力一杯にぎりしめて、ひとしは、額を畳にこすりつけるのだった。
(もうやだ、こんなうち、居たくない…)
その頃、けんの家では、晩ごはんの用意が整っていた。何気なくいすにこしかけて、けんはみそ汁を飲もうとした。
「ヘックシュン!!」
みそ汁がテーブルの上にこぼれて、広がった。
「あ~あ……」
けんのお母さんは、ふきんを取りに棚に手をのばした。そして、ふり返ると、びっくりした。
「けん、どうしたの?」
けんは、目に涙をいっぱいためて、ハアハアと肩で息をしていた。
「母ちゃん……、オレ、ひとしんとこに行って来る。おばさんに本当のこと言って来る……」
なりふりかまわず、いいすてるようにして、けんはその場を立った。
そして、ひとしの家へと走った。
(やっぱり本当のこと言って、ふたりで何とかしよう!)
けんは、真っ赤な両眼を、キッ、と見開いて、走りつづけた。
それからのこと、暴れ疲れたひとしが、畳の上に大の字になって、寝っころがっているときだった。外に、自動車がやって来て、家の前でブレーキをかける音がした。
それは、軽トラックだった。中からは、オレンジ色の作業服を着た、若い女の人が、一枚のガラス板を持って出てきた。そして、ひとしの家の玄関口で立ち止まった。
「ごめんください」
奥から、エプロン姿のお母さんが出てきた。
「はぁ、何か?」
女の人は、深々と頭を下げると、明るく、ハキハキと話した。
「実はわたし、さっきこちらのガラスを割ってしまいまして、ガラスを割ったときに車を停めたのですけど、荷物の納期が時間ギリギリだったもので、お詫びもできませんで、すみませんでした。それで、引き返して来ましたので、直させていただこうと……」
「わざわざそんな……これぐらい。気になさらなくても……」
「いいえ!! わたしの不注意で……わたしの責任ですから」
女の人はそう言って、持って来たガラス板を、戸に当てた。そして、大きさを計ると、ズボンのうしろポケットから、ガラス切りを取り出して、チッ、チッ、と目印をつけた。落ち着いた慣れた手つきで。
それから、ガラスを敷石の上にていねいに置いた。
「奥さま、すみませんが、定規をお貸し願えませんか?」
「え、ええ……ちょっと待って」
お母さんは、定規を取りに書斎の方へ行った。そのとき、おそるおそる階段を降りて来たひとしは、柱のかげから、玄関の方を、そっとのぞきこんだ。
(誰だろう、何してるんだろう、あれは)
女の人は、ひとしをみつめてニコッ、と微笑んだ。そして、お母さんの持って来た定規を、ガラスに当てた。
ひとしは、いろいろな事を考えた。お母さんがガラス屋さんを呼んだのか? それとも、あのひとが犯人なのか? まさか、でも、あの用意の良さは……。
だが、めずらしいガラス切りに、思わず目をうばわれていた。
女の人は、黙々と作業をつづけた。
――ガラス切りで、シューッ、とガラスを切ると、
バリンとガラスのふちが切れ落ちた。
そして、きれいな切り口――。
ひとしも思わずニッコリする。
それから、女の人はガラス戸のわくをはずし、中に残っているガラス片を取りのぞいて、新しいガラスをはめこんだ。
ひとしは、いつの間にか、その脇にしゃがんでいた。
わくのはまったガラス戸が、戸口に収まった。女の人は立ち上がって、右に左に動かしたのち、それを閉めてみた。
「オッケーね!」
ひとしも、立ち上がってニッコリした。
「わぁ~い」
二人は、地面に落ちているガラスのかけらを、とりかたづけた。
「どうも、ありがとうございます…わざわざ…」
女の人とひとしに、お茶を差し出して、お母さんは言った。
「いいえ、何でもないことです。もし、坊ちゃんたちのせいになったりしたら、たいへんですもの……ね、坊ちゃん」
女の人は、やさしく笑って、ひとしの方を見た。お母さんは、少し顔を赤くして、うつむいた。ひとしも、一回、目をキョロッ、とさせたが、すぐに上を向いて、言った。
「おれ、ひとし! お姉さんは?」
「“よしえ”って、呼んでちょうだい。でも本当にご免なさい。ボールをはじき飛ばしちゃうなんて。気をつけなくちゃ……」
よしえさんは、湯のみ茶わんを、お盆の上に置いた。
「じゃあ、失礼します。トラックもはやくどかさないと……」
そう言って、来たときのように、深くおじぎをすると、足早に、玄関を後にした。
すると突然、小さなかげがよしえさんにぶつかって来た。よしえさんは、思わず叫んだ。
「あっ!!」
ひとしは、よしえさんの声にびっくりして、あわてて路地にとび出した。
「ひとしくん! ボール……」
そこには、けんがいた。
「けんちゃん!!
」
ひとしは言った。後から、お母さんもやって来た。
「あのね……」
二人は同時に言って、そして同時に言葉につまった。
「…………」
お母さんが、両腕で、けんとひとしを支えてくれた。よしえさんは、
「ごめんなさい、トラックどけるね」
と言って、軽く会釈すると、ドアを開けて乗りこんだ。
「ひとしくん、……ふたりとも、ごめんね」
運転席から、大きな声で、よしえさんが言った。
エンジンがかかり、ライトが点いて、軽トラックはゆっくりと走り出した。
ひとしとお母さんとけんは、ならんで、それを見送っていた。
<おわり>
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