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ひとりぼっちの自転車

 

 町はずれの丘のうえに、ちいさなニワトリ小屋がありました。何か月も放置されていたようで、汚く、老朽化しておりました。その脇には、所々さびついて、ドロだらけになった黒い自転車が、ひっそりとたたずんでいました。小屋の中では、神経質そうなニワトリが一羽、きょうも地面をつっついています。エサはとっくに食べつくしてしまっていたので、木の床を突き破って土をむき出しにし、土中の水分や小さな虫などをつまんでは、辛うじてこんにちまで生き永らえてきたようでした。おかげで、必要以上に、神経質になってしまっておりました。自転車は、ただジッとその横にいて、沈黙を守っていましたが、ある夏の静かな夜、ここへ来てからはじめて、ため息のようなものをもらしました。
「ああ‥‥」
 それは、悲しい吐息のように聞きとれました。弱々しい諦めの深呼吸のようでもありました。それを聞いたセイヨウタンポポは、自転車の足もとから、さりげなく話しかけずにはいられませんでした。
「何を嘆いているのです? 何か悲しいことでもあったのですか。そんなに悲しまなくても、アナタは黒くて力強い、立派な体をお持ちではありませんか。もっと自信を持ってください」
 すると自転車は、ずずっとひと息、鼻すすりをすると、セイヨウタンポポをふりかえりました。
「悲しいというか‥‥、最初は腹立たしい気持ちでした。それが、怒りを通り越してかわいそうになり、‥‥しかしそう思ってみても結局何にもならずに、ただただ腑甲斐ない気持ちばっかりで‥‥」
 それを聞いて、セイヨウタンポポは眉をひそめました。
「いったい誰が、かわいそうなのですか?」
 自転車は、つぶやくように小声で言いました。
「もちろん、私を使っていたニンゲンたちです」
「ニンゲンたち?」
「私を使っていたのは、最初は、オトナのニンゲンでした。彼はサラリーマンで、会社にちこくしそうになる時に、家から近くの駅へ行くのに私を使いました。買い求めたときはていねいに、また新品だと喜んでいたのだけれども、そのうち、扱い方がおざなりになって行きました。しまいにそれは、荒っぽい乗りようになってゆきました。
 ある日、私は駅で待たされました。一日が暮れて陽が沈み、翌日の朝日が射して、たくさんの人々が私のそばを通りすぎて行きました。けれど、いつまで経ってもニンゲンは来ませんでした。
 それからまた、次の夜明けがやって来ようというときでした。二日前、出かけた時と同じ上着に、奇妙なアルコールの匂いをただよわせて、彼は戻って来ました。他の自転車にはさまっている私の体を強引に引っぱりだすので、ハンドルの先やペダルに、細かいすり傷が出来ました。そうかと思えば後ろタイヤを思いきり蹴とばして‥‥その時の痛かったことといったら‥‥。それから引きずって家に帰ったのは良かったのですが、日焼けやアザは放ったらかしでした」
「そんな!!」セイヨウタンポポは思わずひきつった叫び声をあげました。「なんてひどいことをするんでしょう‥‥」
すると、
「なァに、ニンゲンの類なんてもんは、大体そんなものさ」
 となりのボロ小屋の中から、ガサゴゾという音とともに、ニワトリのこもったようなひくいだみ声がしました。
「きこえて‥‥しまったのですか。お休みのところを‥‥?」
 自転車が躊躇うと、今度は若干穏やかに、ニワトリが言いました。
「いやいや、この頃何に対しても敏感になってしまってね、話し声なんざあ、いいほうだ。それより子供とか、ニンゲンが時々そばを通ると、ビクッ、と反応しちまう‥‥」
「まあ‥‥」
「セイヨウタンポポさん‥‥だろ? あんたはそこに根付いてまだ半月くらいしか経ってないだろうからわからんかも知れんが、この自転車くんがここに来て、かれこれ一年くらいになるんだ。そうだよナ!? 自転車くん」
「は‥‥はあ」
「オレはもっとその前からここに居る。ニンゲンたちに幽閉されたんだ。もういい加減、くたくたになって来た。はやく、こんな所から抜け出したい。まあ、難しいがね。体力がないんだ。栄養失調でやせ細ってしまってな‥‥。だが、気持ちだけは持ち続けているよ。いつか自由になるんだ!! 必ずこの腐った狭い世界から出てやる、ってね。どうだい? 若いだろ、気持ちだけは‥‥ヘヘッ、強がりさ」
「そうですか。ニワトリさん‥‥でしたよね? ずいぶんとお困りのようですが‥‥」
 自転車は恐るおそる尋ねました。姿は見えていませんが、毎朝、小屋の中から発せられる声を、じっとしながらも聞いていたので、そうではないかと思っていました。
「私で何か出来ることがあれば、と思うのですけど、あいにく自分では動けないので、残念です」
「まあいいさ。それより、もしも、ぬけ出すことができたのなら、オレのこのやせ細ったみじめな肢体を、君にも見て貰いたいよ‥‥」
 ニワトリは、まぶたを強く閉じました。
 おどろきのあまり、顔を紅潮させたセイヨウタンポポは、
「ニンゲンたちっていうのは、本当にずいぶんと残酷なのですね。わたし、息がつまりそうだわ。なんて恐ろしいんでしょう」
と眉根を寄せて、顔を傾けました。
 それから、しばしの沈黙がありました。さらさらと流れる涼しい夜風が、昼間の暑さを忘れさせてくれます。同時に、辛かった日々も消し去ってくれたら‥‥と、自転車は思いました。
「でも‥‥」
 ポツリと自転車がつぶやくと、ニワトリとセイヨウタンポポはいっせいに「えっ?」と自転車をふりかえりました。セイヨウタンポポが言いました。
「辛いのですか? 自転車さん?」
「辛いというか‥‥ただただ腑甲斐ない。放ったらかしにされてしばらくは、その家の庭の、いちばん陽あたりの悪い壁ぎわに追いやられていたのですが、いつしかその家のコドモが――小学生でしたが、私を使うようになっていました。
 コドモは割に長い間、私に乗っていました。夏休みのプールに行くときや、夜おそく塾に通うときなど便利だ、ということで。他の子に比べて体が大きいほうだったので、『トオサンの自転車、ちょうどいい』って話してたのを、遠くで聞いたことがあります。それから‥‥そうそう、こんな事もあったなあ、塾の駐輪場で彼を待っている間でした。
 他のコドモたちが、ジュースの空きコップや空きカン、ゴミなんかを、私のカゴの中へ放りこむんです。そりゃあ、前のオトナのひどい扱いで、ボロボロの体ですが、それでもチェーンはしっかり張ってるし、ブレーキだってちゃんと作動します。ちゃんと使えるのに‥‥。カゴの中は数分でゴミの山になりました。あのときは‥‥そう、六、七人のコドモがやって来たでしょうか。それからしばらく間をあけて、持ち主の子が戻ってきました。コドモは私を見てビックリしました。『ヒドイことするなー!!』って、大声で独り言を叫んでました。そして周りをキョロキョロ見て、ゴミのうえに塾のカバンを乗せると、家へ帰りました。門のはす向いのところに、その地域のゴミ集積所があるんですけど、そこでカゴの中のゴミを出してくれました。『公園のクズカゴじゃない』みたいなことをつぶやいていたと思います。そのとき、『どうもありがとう』って言いましたよ――もっとも彼には通じなかったみたいですが――。さすがにあのときは、嬉しさで体をこわばらせたのを、覚えています」
 いったん口を噤んで大きく胸をそらすと、自転車はフーッ‥‥と、長い息を吹きました。
「それで」ニワトリがおもむろに問いかけてきました。 「そのコドモっていうのは、オマエさんがここに来たとき、引きずって来た、あの子供なのかい? それとも‥‥」
「ええ、実は‥‥その子なんです。ここは元、小学校の校舎があった所みたいで、そのときコドモは、友だちらしき別の子と二人で、私を引っぱりながら話していました。ホラ、そこに外壁があって、でも、ここも放ったらかしになっていたでしょう。それで、何やら話をしながら連れて来られると、そのままここに置いてきぼりにされてしまったみたいです。
 町中なら、他の自転車とかオートバイたちがいて、何か話でも出来るのですが、こんな、見渡す限りの平原の、しかもうしろは壁の立ち塞がる場所で‥‥、ほとんど息を止めて、歯をくいしばっていたようなものです‥‥」
「でも、それが張りつめすぎたのですね」
 セイヨウタンポポは、哀しそうに声をふるわせました。
「無理もないさ」ニワトリが、身をよじらせながら言いました。「しょせん、ニンゲンなんて無責任なものだよ。だからオレたち弱い者は、知恵をしぼって自分たちの力だけで生き延びて行かなくちゃ、いけねえ。
 そのためにはまず体力だ。体力をつけるためには栄養のある食い物をたっぷり喰わなくちゃなんねえ。栄養をつけて、知力をふりしぼるんだ。今、何が出来るか。‥‥オレはチャンスをうかがっている。諦めるなんていつだって、百年先にだって出来るさ。それはあと百年でも取っておいて、今は脱出のスキを狙ってやろう、って、オレはそう考えてんだけどヨ。
 そして、生き延びたら何をするか、だ。何か働きかけなくちゃなんねえ。ニンゲンの無責任をいくら追求したってはじまんねぇからな。オレたちは自分の方から働きかけなきゃ。待ってるだけじゃ、何も起こらねえ。それどころか、弱い者がますます追いつめられてゆく」
「私も、ここでしばらく、そんなふうに考えてみました。でも、誰の力も借りないで歩き出すことは出来ません。
 ニワトリさん、アナタが羨ましい。私は自分の意思では体すらどうすることも出来ないのです‥‥。こうして自分の意識をはっきり持って、あなた方に主張することも出来る、というのにね」
 疲れた黒い体を夜風にさらしながら、自転車はしょんぼりとうなだれました。
「わたしは‥‥今までずうっと倖せでした。そんなことを考えめぐらしたことなどありませんでした。
 朝にはニワトリさんのすきとおった声を合図に、暖かい陽の光を浴び、昼は涼しい風にゆられてまどろみ、きれいな夕焼けを眺めては心を落ち着かせ、夜になれば虫たちの合唱曲を背中にうけて、ゆっくり眠る。そういう日々の暮らしに、当たりまえのように満足していました。それが、自転車さんのような方がいらっしゃるなんて‥‥。何だか、ひとつ新しいことを知った、っていう嬉しい気持ちと、そんな酷いことが本当にあるの、っていう恐さと、いっぺんに来たみたいで‥‥何て言っていいかわかりません。
 でも自転車さん、もうそんな悲しいことは忘れて、ここで私たちとのんびり暮らしてゆきませんか?」
 飾り気なく思ったままを口にするセイヨウタンポポに、自転車は今まで感じたことのない、奇妙な安堵感を抱きつつありました。
 いっぽう、小屋の中のニワトリはそれを聞いて、急にそわそわと動きながらあえぎました。ガサゴゾという不可思議な雑音が、夜の闇をにわかに支配しました。
「オレは‥‥のんびりんなんて御免だ、ああ、もう考えれば考えるほど、黙ってはおれん。一刻もはやく自由になりたい。どうしてオレがこんな目に逢わなくちゃならんのか、あきらめきれん。何とかして、ここから出たいんだ。確かに体はいうことを聞かないが、気持ちだけは‥‥。若い気持ちをずっと持ち続けよう、と思うとる。そしてまた。躍動するそういう気持ちが、生きる、っていうことじゃないか、とも思う。
自転車君よォ、あんたのことも、同情はするよ。オレら弱い者はそうやって常に不安と恐怖にさらされ、身の縮む思いで、日々を過ごさなくちゃなんねえ。だがもう‥‥沢山だ!」
 演説をするように首を動かして、ニワトリは大げさにふるまいました。夜空には、星々たちがぼんやりと浮かんでいます。ふと、彼の目に、それが飛び込んで来ました。
「おっと」ニワトリは、急にあらたまりました。「こりゃあ、ちょっくら夜更かししすぎちまったみたいだな。話してるうちについつい時間を忘れていたよ。明日も早い。オレはもう休むぜ。でも、自転車くんも、セイヨウタンポポさんも‥‥なんだか今夜は楽しかったよ。久しぶりで面白かったっていうか、自分の、言いたいことをぶちまけたような感じもするし‥‥ヘヘッ、何だかテレくせぇ~、ま、とにかく、生きてるんだな、っていうのを久々に実感したような気がする。明日からは喋るだけでなく、その充実感を体で味わいたいものだ。
 自転車くん、ありがとうよ、おやすみ」
「よかったわね、自転車さん」
 ニワトリとセイヨウタンポポに言われて、自転車は、恥ずかしそうに頬を赤らめ、うつむきました。けれども、漆黒のくらやみの中、それを見てとるものは、誰一人としておりませんでした。
 リーリー‥‥という虫たちの演奏が、真っ暗やみの静かで殺風景な丘の上に、かすかな彩を添えていました

 翌朝、ニワトリだけは早起きでした。ひとしきり朝のお勤めをすませると、さっそく、またイライラと地べたをつつきはじめました。考えてみれば「コケコッコー」という鳴き声も、日に日に弱って来ているようです。
 自転車とセイヨウタンポポは、太陽が頭のてっぺんまで昇りきった頃にようやく、目をさましました。セイヨウタンポポは言いました。
「自転車さん、おはよう。また、お話聞かせてくださるかしら? 時間のたっぷりある今のうちに、たっぷりと話してくださいな」
「わかりました」
 自転車はうれしそうに答えました。こんな嬉しい、どきどきする気持ちになったのは、本当に久しぶりです。もしかすると、はじめてかもしれません。
「さて、今日はどんな話にしましょうか‥‥」
 いろいろと考えあぐねていると、セイヨウタンポポが言いました。
「何か、楽しいお話はないかしら。わたしたち花にまつわるお話でも‥‥ねえ、どうかしら?」
「オレも聞いてるぜ」小屋の中から、頼もしいニワトリの声がしました。
 自転車はにっこりして言いました。
「そうですね。そうだ、ここへ来るほんの少し前のことですけど‥‥」
 自転車が、少し得意げになったときです。突然、目の前の光景がユラユラと波うってゆらぎはじめました。前輪と、うしろのスタンドとでしっかり立っている筈の足許が、グニャグニャとうねりだしたのです。
 地震でした。
 自転車はあわてて体のバランスを保とうと神経を集中させましたが、そのとき、ある考えが頭の中をよぎりました。
 ニワトリは「コォーッコッコッ、コォーッコッコッ!!」とわめき散らして、せまい小屋の中を、前後左右、行ったり来たりしながら転がり回っています。
 セイヨウタンポポは異常な様子を感じながらも、じっと眸を閉じて、地下の根っこの動きに身をゆだねました。
 自転車は、自分は倒れるのだろうな、と想像しました。――いや、しかし倒れてはいけない。何故でしょう、同時にそう思いました。ここは、ふんばらなければ。左右にのびているハンドルの先端に力をこめて、均衡をとるように心がけました。
 しかしながら、ハンドルは左右への回転が効くように、本体フレームに固定されていません。前輪を挟んで、ハンドルと一体形成になっている前ホーク共々、その地面の波打ちに合わせて、ぐらつくしかありませんでした。
 ハンドルに意識を集中させるべきか、あるいは本体の方か‥‥。重量の力関係からすれば、それは歴然としていました。本体を中心に考えざるを得ませんでした。自転車はもどかしさにあえぎました。くやしい。こんなときでさえも、思う通りにはならないのか、自分の体すらも!! ユサユサとした振動は、少しずつ大きくなってゆきます。もうダメだ! 倒れる。
 左側から生き物の体温を感じました。とっさの頭で、今、自分のいる位置関係をかえりみようとしました。右の方向から聞こえてくるのは、ニワトリさんのひきつった叫び声、そして左には‥‥。
「ん、んんっ‥‥」
 地面の揺れに、気分を悪くしたセイヨウタンポポさんは、思わずうめき声をもらしました。
 自転車は、体の右側に重心を持ってゆことしていました。幸い、右のハンドルにベルが付属していて、かなり微妙な重量ではあるけれども、差があります。問題は、ペダルのバランスの取り方でした。
 地表の隆起は一時激しくなり、そのとき自転車は、鈍いうめき声をあげました。
「ニワトリさん! あぶない!!」
 次の瞬間には右ハンドルが、腐りかけた木製の壁の一部に、めりこんでしまいました。
 波打ちはじめてから、二、三分経ったでしょうか、揺れはすっかり止んでいました。恐ろしいほどの静寂が、丘一帯をおおいつくしておりました。
 すんでのところで身じろぎをしていたニワトリは、自転車の右ハンドルと、崩れ落ちた木の壁の隙間から、白黒させた両眼をのぞかせました。
「だいじょうぶ‥‥ですか? ニワトリさん‥‥今のは、これは‥‥?」
「‥‥自転車くん‥‥!?」
 叫んでニワトリは、一心不乱に朽ちかけた壁をつっつきました。そしてさらにくずれおち、少しひろがった隙間から、体をよじらせてはい出しました。
「セイヨウタンポポさんは、大‥‥丈夫‥‥なんでしょうか‥‥」
「自転車さん、大丈夫よ」
「自転車くん‥‥オレは君にお礼を言わなくちゃあなんねえみたいだなあ‥‥」
 ニワトリは大きく深呼吸すると、かたむいた自転車とセイヨウタンポポの前に来て、ひざまずきました。
「自転車くん、オレは念願叶って、こうやって檻の外へでることができた。だが、これはすべて君のお陰だ。君の努力のたまものだ。本当に、言葉にならん、ありがとう」
 深々と頭を下げたニワトリは、感情の高まりを、おさえきれませんでした。くちばしで何度か地面をつつくと、立ち上がって、そわそわとその場をうろつきました。
 自転車はようやく小屋の壁にその体を預けて、一息つきました。
「そんな、お礼を言われても。偶然です。でも良かったですね。ニワトリさん助かったんですね。窮屈な小屋からぬけ出すことが、できたんですね。よかった‥‥。
 私も、うれしいんですよ。今度ばかりは、やっと自分の体を自分の思うとおりに動かすことができた。これ、実は生まれてはじめてのことなんです。ずうーっと、ずうーっと願ってたことなんです。時々、どうして? って考えたりもしました。――でも今はやっと。セイヨウタンポポさんを守って、ニワトリさんの力にもなれて。
 願いって叶うんだなあ。そうだ、これがもしかすると、昨夜ニワトリさんがおっしゃった、生きる、っていうことなんでしょうか。私は、うれしいです」
 自転車はいつの間にか泣いていました。悲しいときや、辛いときには泣けないのに、こういう時にはどうして泣けてくるのだろう、と思いながら。
 ようやく涙をふりはらうと、自転車はさらに声をふるわせました。
「ニワトリさん、お腹が減っているのでしょう、町へ出て、栄養のある食べ物をたくさん食べてください」
 ニワトリは両足でしっかりと大地を踏みしめながら、答えました。
「ああ、ああ、君は何も心配しなくていいよ、それより、何か要るものはないかい? 自転車くん、セイヨウタンポポさんも?」
「わたしは何もいりません。もうそろそろ、この季節が過ぎると、散って行かなくてはなりませんので」
 自転車はそれを聞いて、はっ、としました。
「え? そんな、そんなこと言わないで、長生きしてください」
「いいえ、それがわたしの人生ですもの。でも、自転車さんやニワトリさんのお陰で、楽しかったです。どうもありがとう」
 冷や汗が、自転車の頬をつたいました。
「ニ‥‥ニワトリさん‥‥」
 ニワトリは自転車に背をむけ、太陽を見上げました。
「ああ、オレは自由になった! これから永い永い旅に出かけるよ。だが自転車くん、案ずるな、いつかまた必ずここへ戻ってこよう――君の事は決して忘れない。返すがえすも君を連れて行けないのは残念だが‥‥」
 自転車は眼を閉じて、静かに言いました。
「何を言うんです。私は自分の夢が叶った。はじめてのことですけど、それだけでいいんです。それより、お元気で。――私はここにこうして、ニワトリさんのぬくもりのしみついた小屋のベッドに横になって、ゆっくり休みます。
 疲れが取れたら、また気を引きしめてみようと、思います。考えてみたら‥‥ひとりぼっちじゃなかったんですね。ニワトリさん、セイヨウタンポポさんのような方が、こんな間近なところにいらっしゃったとは。セイヨウタンポポさん、なぐさめてくれてありがとう。ニワトリさん、勇気と活力のヒントを与えてくれて、感謝しています」
 しまいのほうの言葉は、かすれて、聞こえるか聞こえないかの、か細い声でした。
 セイヨウタンポポは、寂しくうなだれました。
「じゃあな」
 むこうを向いたまま、かるく手をふるニワトリの姿は、すでに二人の視界からは消えていました。
 彼は、よたよたとした足どりで、校門跡の所をくぐって行きました。

 その日を境に、これまで毎朝聞こえていたニワトリの合図は、ぷっつりと、とだえてしまいました。その替り、朝の陽射しを浴びて、黒々と力強くかがやく者が、半壊したニワトリ小屋に、横たわっておりました。
 黒い者の全身には、細かな水滴がびっしょりと、まとわりついておりました。それは、太陽熱にとかされ、強者の汗のように、からだを流れてゆきました。
 横では、セイヨウタンポポが、ゆったりと瞳を閉じていました。朝つゆに、すべすべした全身をぬらし、静かに頭を垂れています。
 たった一度の役目を果たした自転車は、眼を閉じて、静かに天をあおぎました。
 そのとき、一すじの小さな風が、ほのかなもみじの香りを自転車の鼻先に運んできて、飛びさってゆきました。 

<おわり>

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